ぷれぜん仙人のブログ

〜言葉で人を動かす技術の探究〜

 
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【思考ログ】覚醒とは何か?("自我"の認識、そしてコントロールへ)

ぷれぜん仙人です、

今日は「自我」について。

難しい話は意識的に避けてきたんだけど、思考ログもけっこうたくさん溜まってきたので、徐々にこういう話も入れていこうかなと。分かる人は限られるだろうけど。

何らかの気づきのキッカケになれば、という感じで書いてみました。

ーーー

今日は「覚醒」とは何か?について書いてみようかと。

 

かなり難しい話なので分からない人はスルーしてください。笑 

 

私の考える覚醒の第一歩としては、自分の「自我」に気づき、観察できるようになること、そして、「自我って俺じゃねーじゃん」を確信できるかにあるのかなと。

 

まず、自我とは何か?自我とはその人の性格や行動特性を特徴付ける「プログラム」だと考えると分かりやすい。例えば、ある人はこういう事が好き、こういう事されると怒る、こういう事があると喜ぶ、みたいなことの無数のプログラムの集積。

 

じゃあ、次にその自我ってどこから来たのか?という話になると、全部、「外部」だと気づく。小さい頃から積み上げられてきた親とか、教師とか、友達とか、テレビとか、尊敬する人とか、自分の体験とか、それって全部「自分以外の要素」なんですよ。

 

それらがプログラムとして機能していて、何らかの刺激がインプットされると自動的に、反射的に、作動する。それが自我の正体。

 

多くの人は自我というものを「自分」だと思っている。そして、その自我が生み出す怒りとか悲しみとか欲望とかで苦しむ。人生で起こる苦悩や苦しみはすべて自我が原因なんです。

 

そこに気付いたのが、いわゆる「悟り」と呼ばれるものに到達した偉大な人類の先人たちで、彼らは瞑想修行を通して「いや、自我って俺じゃないよね」と気付きました。

 

なぜなら、その自我を「観察」することができるから。

 

例えば、鏡にあなたの姿が映ったとする。”それ”を自分だと思わないじゃないですか。鏡(=反射された映像)であり、自分(=それを見ている観察主体)という関係。自我が自分なのであれば、観察できないわけです。自分で自分の目を見ることができないのと一緒。

 

話を元に戻すと、この自我というのは厄介で「オートマチック」に動く。例えば誰かと話をしていて、怒りが込み上げてきた時を思い出してください。怒ろうと思って怒ったわけではなく、「勝手に」怒りがこみあげてきて、それに気付くという関係ですよね。

 

もちろん、それで怒って殺人をしたら「いや、これ自分がやったんじゃないんです!自我が勝手にやったんです!」は通用しませんけど。笑 

 

とにかく、観察できるんだから自分じゃない、まずはそう思うんです。次に、なんか嫌な感情がわいてきたら、それを静かに観察する習慣を少しずつ身につけていく。

 

それに良いとか悪いとかの価値判断を与えずに、「そうか、これこれが嫌で怒ったんだね」とか「うん、きみがこれこれが納得いかないで悲しいと感じたんだね」みたいにあたかも他人の悩み相談を聞く人のように自分の自我の主張を聞いてみる。

 

これができるようになると、一瞬、怒りが込み上げてきたとしても(それは自動的に起こる自我の反応)であって、「俺の怒りじゃない」と次第に思えるようになってくる。

 

そうすると、「怒りに乗っ取られなくなる」というすさまじいメリットがある。もちろん、悲しみでも、悔しさでもなんでもそうですよ。

 

自分もこれが完全にマスターできたわけでもなんでもなくて、こういう理屈だと分かって練習している段階なんだけど、依然と比べるとすごく楽です。

 

覚醒とはおそらくゼロイチ判定されるものじゃなくて、レベル1〜99みたいなグラデーションがあるものなんじゃないかというのが今の理解。

 

まとめると、「覚醒=観察者の視点、コントロール力を手に入れる事」という感じ。また、別の角度でこれを書いてみようと思います。